「シン図書館」について2

コモンを取り戻せ。

 前回の記事でなぜ自分が主宰する建築設計事務所の横に「シン図書館」を整備するのかを書いた。

「シン図書館について」

 実は「シン図書館」には表テーマ、裏テーマがあり、前回の記事は裏テーマの一つについて書いたものだった。裏テーマの一つは記事に書いた通りに「居る」状態を保持できるような場所を作りたいということだった。そして実は裏テーマがもう一つある。それが「コモン」だ。

人新世の「資本論」

 只今新書の経済書としては異例のヒットとなっている本がある。斉藤幸平の『人新世の「資本論」』である。人新世について斉藤幸平はこう説明している。

 人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

斉藤幸平『人新世の「資本論」』

 地球の表面がビル、工場、道路、農地、ダムなどで埋め尽くされている状態である。私は人新世という言葉を吉川浩満の『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』という本の中で初めて知った。本来地質年代というのは人類の歴史と比べるべくもなく、長いスパンの話しだ。何億年、年万年という単位のスパンで語られるものである。しかし、人新世は産業革命以降のたった2,300年程度の人類の活動によって地質に刻み込まれたしまったものだ。私はこの言葉を知り、ショックを受けた。

 『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』という本は吉川浩満によるエッセイや対談集、インタビュー記事など様々なテキストをまとめた書籍である。吉川は「人新世」の話しを紹介するテキストとは別でユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の感想を述べているテキストも収録しており、この本のおもしろさを以下のようにまとめている。

 ヒトが経験した三つの革命ー認知革命、農業革命、科学革命ーこそが人間を人間にたらしめたのだという筋立てです。『サピエンス全史』が扱う期間は通常の歴史書と比べても非常に長いのですが、それが三つの革命という観点からすっきりと理解できるようになっている。
 最初の、七万年前に起こったという「認知革命」がとりわけ重要です。フィクション、つまり存在しないものを信じる力によって、人間には他の生物種には見られないほど大規模な社会的協力が可能になったという。 

吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

 人類は国家や貨幣、法制度や規範というフィクションを信じることによって生き残り、発展してきた。吉川はユヴァル・ノア・ハラリが長大な歴史を上記のような一点突破、全面展開するようなところがシンプルで面白いと指摘しているが、同時にこう警鐘もしている。

 この本がサピエンスの自尊心をくすぐる歴史物語であるという点。(中略)この本にも書かれているとおり、現代文明が持つ強大な力に比べると、そこで暮らす個人の能力というのは、狩猟採集民にはとてもかなわないくらい小さなものでです。このギャップですね。そこを意識させず一気に読ませるところがこの本の美点ですが、もしギャップの自覚が皆無であれば、成功した企業や起業家の社史や自伝を読みあさって選民意識や承認欲求を満たす「意識高い系」や、他人に被害を加えておきながら「やんちゃな俺」なんていって自己愛にそれを正当化する「ちょいわるおやじ」などと同じことになりかねません。

吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

 私も『サピエンス全史』を読んで同様のことを感じた。専ら「認知革命」の章を読むと、「人類すごい」みたいな感想を抱いてしまう。「人新世」についてはどうだろうか。通常は数億年、数万年単位で区切られるはずである地質年代にたった2,300年で年代を刻み込んでしまう我々「人類」。でも、さすがにここでは「人類」であることの万能感よりも、「人類」の罪深さを感じずにはいられない。

 斉藤幸平がなぜこのような本を書いているかの大きな理由の一つは気候変動に立ち向かうためだ。

 近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。

斉藤幸平『人新世の「資本論」』

「商品」と「富」

 「富」とは何だろう。なんとなく、貨幣通貨のフィクションの世界で生きる私たちにとっては「富」とは通貨、お金のように感じてしまう。斉藤は「富」をこのように説明している。

 例えば、きれいな空気や水が潤沢にあること。これも社会の「富」です。緑豊かな森、誰もが思い思いに憩える公園、地域の図書館しゃ公民館などがたくさんあることも、社会にとって大事な「富」でしょう。知識や文化・芸術も、コミュニケーション能力や職人技もそうです。貨幣では必ずしも計測できないけれども、一人ひとりが豊かに生きるために必要なものがリッチな状態、それが社会の「富」なのです。
ー斉藤幸平『100分de名著 カール・マルクス 資本論』

 カール・マルクスが『資本論』の中で批判したのは資本主義下では「富」がどんどん「商品」に姿に変えていくことである。例えば水といえば誰もが公平にアクセスできる「富」であるはずなのに、それがペットボトルに詰め込まれ、「商品」化してしまい、それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければその「商品」を買うしかなくなる。資本主義は、人工的に希少性を生み出すシステムなのである。

 かつてイギリスでは、地主や領主が非合法に農地を囲い込み、小作人を追い出して、農作物より儲かる羊の放牧地に転化するということが盛んに行われました(後略)。
 「商品」生産の担い手は、自らの労働力を提供するだけでなく、「商品」の買い手となって、資本家に市場を提供したのです。こうして、賃労働をしなければ生きていけない人が増える一方で、市場経済が回り始めると資本家や地主はどんどん潤い、資本主義は発展してきました。

斉藤幸平『100分de名著 カール・マルクス 資本論』

「富」を取り戻す

 本来「富」というのは比較不可能なものだ。緑豊かな森、安全な水、誰でもが利用できる図書館、こうした誰でもがアクセスできるはずの「富」というのは本来であれば貨幣で測りきれない「使用価値」がある。しかし、私たちはそうしたものに値付けをし、「商品」化してしまう資本主義の下に生きている。

 マルクスは「価値」と「使用価値」を分けて定義している。「使用価値」とは人間にとって役に立つこと(有用性)を言う。例えば、コロナ渦でのマスクであれば飛沫を飛ばさないための道具である。これが「使用価値」だ。しかし、コロナ渦になった当初、マスクの品薄状態だ続くことで価格が高騰した。「使用価値」は一緒なのに価格が10倍、100倍となる。これが「価値」だ。「価値」を作るはずの人間が、常に「価値」に振り回されて生きている。資本主義化ではこうした逆転現象が起きてしまう。

 そうした人間の生き過ぎた活動により、今地球は危機に瀕している。地球が危機となれば、もちろん私たち人類にとっても危機である。資本主義は「価値」の増殖を無限に求めるが、地球は有限である。

 彼が思い描いていた将来社会は、コモンの再生に他なりません。いわば、コモン(common)に基づいた社会、つまり、コミュニズム(communism)です。わかりやすくいえば、社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマスクスは構想していたのです。

斉藤幸平『100分de名著 カール・マルクス 資本論』

 私たちは「富」が「商品」化されていく世界に慣れ過ぎた。産業革命以降、2,300年の間しか運用されていない資本主義というフィクションをあまりにも信じ過ぎている。

でも、結局私たちは何をすればいいの?

 資本主義は経済活動を止められない。そのことで気候変動が起きている。その気候変動に立ち向かうために私たちは何をすればいいのか?斉藤は『人新生の「資本論」』の中で明確に脱成長が必要ととく。

 気候変動を食い止めるにはまず2100年までに平均気温の上昇を産業革命以前の気温と比較して1.5度未満に抑えなければならない。そのためには2030年までに二酸化炭素の排出量をほぼ半減させ、2050年までには排出量をゼロにしなければならない。そのために何をすればいいのか?マイボトルに変える?住宅に太陽光パネルを搭載する?電気自動車に乗り換える?確かにそれらも時に必要な時がある。しかし、経済成長をした上で上記のような対策をしても気候変動は止まらない。

 家庭用太陽光パネルが廉価になって浮いたお金で、人々は飛行機に乗って旅に出るかもしれない。余剰資金が生じれば、企業は新しい投資先を探すに違いない。それがグリーンであることの保証はどこにもない。

斉藤幸平『人新世の「資本論」』

 斉藤幸平はこうしたことを踏まえ、SDGsは「大衆のアヘン」であると批判している。マイボトルを持ち歩くことで、なんとなく温暖化対策に貢献しているように思う。マイボトルを買うことが「免罪符」として機能してしまっているからだ。

 私は去年斉藤の『人新生の「資本論」』を読んで、面白いと思うと同時に強烈な危機感を感じた。それからは斉藤幸平が登壇する対談会やオンラインセミナー、ラジオなどをなるべくチェックするようになった。対談会やオンラインセミナーなどでは大抵終盤に出席者からの質問を受けることが多い。その時必ず上がってくる質問として「今すぐ自分にできることは何ですか?」という質問だ。私も斉藤の本を読んでそう思った。しかし、その問いは本当に地球の行く末を思ってのことなのか、人類として生きる私たちの原罪性に耐えきれずに聞いていることなのかをよく考えなければならない。

 体調が悪い人に対して「大丈夫?」と聞く場合、もちろん相手を心配して聞いているわけだが、同時に「大丈夫?」と聞かなければ自分が薄情な人間のように思われることを恐れて聞くということを否定できない。どうリアクションをすればいいのか分からないが、取り敢えず「大丈夫?」と言ってしまえば、薄情な人間と思われることは免れるため、沈黙に耐えかねて「大丈夫?」と聞いてしまう。

 出席者の毎度同じ質問を聞くたびに私はそのことを思い出す。斉藤も同じくそれを感じ取ってか、毎回釘を刺してこのような内容のことを答えている。まずは一人でできる範囲で対応しないようにすること。一人でできる範囲で気候変動に対応しようとすると、どうしてもマイボトルを買うとか、エコバッグを買うなど簡単な行為になってしまい、結局経済活動に絡みとられてしまい、気候変動に加担することになる。そうではなく、まずは人を巻き込むような活動をすること。デモに参加するという行為も重要だと斉藤は回答する。グレタ・トゥンベリの活動は一人で始まったが、一人の行動であっても世界中の人を巻き込んだ活動となり、気候変動への関心を高めることができたと説明する。

 私たちは問題に対面し、危機感を感じるとすぐに解決できるような対応策を求めてしまう。しかし、すぐに解決できるような問題であれば、最初から問題にも危機にもならない。問題を認識したのであれば、即席で対応するのではなく地に足のついた対応策を考え、行使していくべきだ。

まずは自分の範囲を差し出してみる

 前段が長くなったが、私が自分の設計事務所の隣に私設図書館を作ろうとしたきっかけは「コモン」を作りたいと思ったからだ。「コモン」とは共有財産のことだ。私有化したものを共有化していけば、それはみんなで管理していく共有財産にならないかと考えた。私が開く私設図書館に置く書籍は全て私の私物である。この私物をオープンにすることで「コモン」を作れないかと考えた。

 そしてまた、貨幣以外での経済活動ができないかと考えている。ひとまず「シン図書館」にある本をその場で読む限りにおいては自由に閲覧できるようにするつもりだ。貸し出しについてはどのような方法を取ればいいか迷っていた。特に建築の作品集ともなれば、結構いい値段のする本もある。貸し出し期間を決めたとしても、返却されない可能性もある(そもそも私自身が貸し出し期間を結構破る方なので)。貸し出しは一切しないことも考えたが、最近このシステムであれば貸し出しができるかなと考えているものがある。

 それは「物々交換」である。そもそも貨幣が生まれる前は、人類は「物々交換」することで暮らしていた。本をただ無料で貸して終わりというだけでは貸した相手が見えず、なんとなく一方通行の関係で終わってしまうのも味気ないような気がしていたので、例えば私の本を借りたい人がいれば、代わりに私に本を貸すということにする。私の本を借りるために、その人がこれであればという本を貸す(絵本でも、漫画でも、CDでも、DVDとかでもいいかなと思っている。まだ考え中)、その本をみて私も本を貸すか決める。たまに交渉が決裂することもあるかもしれないが、それも面白いと思う。お互いがお互いの本を持っているとなれば、お互いの本も大切に扱うだろう(人質ならぬ本質だ)。自分が選ぶ本はどうしてもある種の偏りがある。その偏りはどの人にも当てはまる。偏りのあるものを別の偏りのある人に渡す、色々な偶発性が生まれそうで面白そうだと思う。

 一人で始める私設図書館ではあるが、一人の範囲で完結するような図書館にはならないようにしようと思っている。四畳半という、とても図書館と呼ぶにはささやかすぎる大きさかもしれないが一つの社会実験としてこの活動を見守って欲しい。ちなみにオープンはまだ未定だが、今年の3,4月あたりに整備できればと思っている。四畳半の図書館にどんな本があるのか見てやるぜという方や、この本を読めという方も是非いらして欲しい。もちろん裏テーマのもう一つの「居る」だけを求めてくることも大歓迎である。